濁りも澱みもない青が、ガラスを隔てた向こうでゆらゆらと光を透かして煌めく。水中で優雅に尾ひれを揺らし、くるくると遊ぶように泳ぐイルカが、その青でやんわりと青白く染まった蓮の前で動きを止めた。
それに触れようと蓮の指先が、分厚い水槽の表面をゆっくりと触れるか触れないかの距離を保って滑った。

「じゃあ、虎の一日」

何か欲しいものはあるかと問うたのは先月のことだ。
今日のこの日、蓮の誕生日に向けてのことだった。蓮は少し首を傾け、視線を緩やかに泳がせてから俺の一日だと答えた。なんだその返事は、と思いながらもしたいことや行きたい場所、食べたいものがあるのならととりあえず頷いた。けれど、そんなことを言われなくとも蓮と一緒にいるつもりだった上に、欲しいのは“時間”だとあえて言葉にされたのは何となく腑に落ちなかった。

「お兄ちゃんすごいね、イルカさんとおしゃべりしてるの?」

「うん?」

その違和感は的中した。
「その日は水族館に行きたい」と言ったのは蓮で、それならと事前にチケットを買おうとしたら既にそれは蓮の手にあった。じゃあ当日は俺が運転してすると言えば「僕運転したいからさせて」と断られた。虎の時間を僕が自由に使える権利をもらったのだからと、蓮は肩をすくめて目を細めた。それが少し前のこと。今朝、それは滞りなく実行され、俺は助手席で蓮の運転する横顔を眺め、楽しそうに話すことを聞き漏らさないように耳を傾け、立ち寄ったサービスエリアで唯一コーヒーを買わせてもらったのだった。

「だって、ほら、みんなお兄ちゃんの前に集まってきたよ」

「不思議だね、言葉はわからないんだけど…でも、ほら」

「わあ!すごい!!なんで?」

「僕にもわかんない」

「えでもかわいいね」

「かわいいね」

いつの間にか蓮の前には水槽内にいる三頭のイルカが集合し、蓮の指先で撫でられるのを待っているように鼻先をガラス面に押し付けている。その鼻先からつるりとしているであろう額が蓮の正面で動く。そんな蓮に何人かの子供が近寄り、気づけばイルカも人もその一箇所に密集してしまっている。
海に比べれば果てしなく狭く小さな水槽はけれど、その外から眺める俺たちには大きく。その中を左右に上下にと自由に泳ぐ彼らを見る為にはある程度動かなければいけない。それが。
蓮の前に集まったイルカは子供が疑いたくなるのがわかるほど、本当に蓮に何かを話しかけているように見えた。蓮の天然タラシが対人間だけではないことが証明されているなと、俺は一人笑いそうになっていた。

「イルカショー凄かったね、楽しかったよ」

指が水槽に触れる。
そこには温度も質感もないはずなのに、イルカは直接撫でられたように嬉しそうにくるりと体を回転させた。そして自慢げに頭を揺らす。それを見た子供たちがまたすごいと喜び、蓮は「また会いにくるね」と残酷なほど優しい声で、綺麗に顔を綻ばせた。それから子供たちにも「イルカさんかわいいね」と笑いかけてから俺の方を見た。

「虎」

「ん、」

「ごめん、待たせちゃったね」

「いや、別に」

真面目な話、本当に蓮がイルカと意思疎通出来ていても別に不思議ではないなと思っていたことは言わないで、お昼を食べようと歩き出したその横に並ぶ。何を話していたのかとか、何を思っていたのかとか、それは別になんだっていい。ただ、あのまま水槽との境目がなくなり、蓮に触れられたがっているように見えたイルカが蓮を連れてどこかへ行ってしまいそうだったのを、怖いなと感じたのは確かだ。あの青に攫われ、そのまま光に溶けるように。

「お腹空いてない?」

「…すいた」

じゃあ早く行こうと、さっき水槽を撫でた蓮の指が俺の手を絡め取った。土日とはいえ春の大型連休を避けたその日は思ったより空いていた。それでも多くの家族連れや若者数人のグループにデート中のような恋人が多くいた。その中で躊躇なく手をとった蓮はなんでもないように何を食べようねと楽しそうに口にする。それだけでそんな余計な考えは消え失せ、指先をしっかりと握り直した。

「楽しかったなあ」

「それはよかった」

「水族館なんて何年振りだろうね…十年とか、もしかしてもっと?」

もっとかもなと大して考えずに答えた俺に、蓮は「虎とはもっとってこと?」といたずらっ子のように笑った。そういう冗談も言う日なのかと無言でその頬を摘む。
終始楽しそうな蓮は帰りの運転も、夕食の買い出しも率先してしてくれた。いや、普通に出かけて夕食まで用意してもらって、これでは誰の誕生日かわからない。どこかで飲んで帰るかと提案しても、食べたいものがあるなら作ると言っても「今夜は僕が唐揚げを作ります」と言って聞かない。なんだその意地はと、せめてもと予約しておいたケーキだけは死守して家路についた。どうして唐揚げなのかはわからないけれど、蓮の作る唐揚げは間違いなく美味い。白米は進むしビールもよく合う。冷めても美味しいけれど、揚げたてをその場で行儀悪く食べる美味しさは格別だ。
誕生日のデートにしては随分早い時間に帰宅し、早々に鶏もも肉を解体して下味をつける蓮を横目に洗濯物を取り込み、それぞれの部屋に持っていきリビングに戻る。すると早々に手まねきで呼びつけられた。

「虎、」

「うん?」

「はい」

「…ん?」

「座って」

「…はい」

「ふふ」

唐揚げの下準備が終わったらしい蓮がコーヒーの入ったカップをテーブルに並べ、俺を隣に座らせる。日中たっぷり日を浴びていたらしいソファーからは太陽の匂いが漂っていた。そのソファーの上で蓮は俺の手をとり、マッサージでもするみたいにやわやわと揉み、最終的には恋人繋ぎで落ち着き俺の肩に頭を預けた。

「何、疲れた?」

「全然、ちょっと、触りたくなっただけ」

「すけべかよ」

「えー?」

ふふ、と鼻から漏れる笑い声が好きだ。
形の良い頭のつむじに頬を押し付け、反対の手でその顔に触れると今朝家を出るときにしてからしていないキスの感触が蘇った。外に出ていたのだから当たり前かと変な納得をしながら頬を持ち上げると、やんわり拒絶するように俺の唇は蓮の鼻にあたった。

「傷ついた」

「ふ、ふふ、」

「楽しそうだな」

「楽しいよ、いつも。でも今日は特に楽しい」

「ああそう」

「怒った」

「怒ってない」

「本当に」

「ほんとに」

お互いの鼻の先が擦れ、まつげまで触れそうなほど顔が近づけられる。色気を孕んだ目を縁取るまつ毛が瞬きで揺れたかと思えば、次の瞬間にはその隙間から覗く茶色い瞳が俺を捉えていた。あ、と間抜けな声を出した俺の唇に蓮の唇が重ねられ、コーヒーの匂いが鼻腔を掠めた。柔らかな感触を追うために繋いだ手を引いたけれど、残念ながらそれは離れてしまった。強引にでも止めれば簡単に触れられただろう。それをしなかったのは、なんとなく俺のそんなもどかしさを蓮が楽しんでいるように思えたからだ。誕生日だから、と口にはしないけれど。それを理由に自分の好きなように過ごしたいと思っているならそれに従うしかない。

「とら、」

離れたかと思えば甘えたように擦り寄って、目を伏せて再び俺の肩に頭を預ける。思い切り抱きしめたい衝動に駆られながら、それでも呼吸を整えて滑らかな肌の感触を、唇の柔らかさを、舌の温度を瞬きの癖を、一つ一つ脳内で辿る。
結局蓮はその後しばらく人の肩で休憩してから「よし、唐揚げしよう」と意気揚々とキッチンに行ってしまった。その背中についていき、順調に揚げられていくそれを盛り付けながら幾つかつまみ食いをして、いつもより少し早い夕食をとった。ご飯が食べたいからとビールはやめて烏龍茶を飲む蓮に、二ヶ月前の自分の誕生日のことが脳裏に蘇る。あれからしばらくはアルコールを控えていたなと。そう言えば新学期を理由に飲み会が数回あったけれど、蓮はいずれもほとんど飲まずに帰ってきていた。まだ気にしているのだろうか。そんなに気にすることではないし、俺にだけであればむしろ大歓迎なくらいなのに。もちろん言いはしないけれど。

「ケーキ食べてもいい?」

「どうぞ」

「何ケーキかな」と、箱を開けた蓮は中を見て「ビワのタルトだ」と目を大きくした。

「すごい、美味しそうだね」

「モンブランと迷ったけど、」

「嬉しい。ふふ、今年初めてのビワだ」

「何飲む」

「紅茶がいいな、温かい」

「酒はいいのか」

「うん、今夜は、飲まない」

「そう、じゃあ紅茶…」

「あ、食べてる間にお風呂ためようかな」

「浸かんの」

「うん、入らない?シャワーだけなら先に…」

「何、入るって言ったら一緒に入んの」

「いいよ、久しぶりに一緒に入る?」

「…」

「ふふ、冗談だよ、じゃあ虎が出てからためようかな」

「入る」

「うん?」

「一緒に入るから先ためとく」

柔らかいオレンジ色のビワは心地のいい甘さで煮詰められ、カスタードクリームと上手く溶け合って舌の上で消えた。
梅雨に入る前の、特別な季節の気配を孕んだ匂いりそれを鼻の奥に残したまま、蓮と湯船に浸かった。





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